-
福岡大学
薬学部 救急・災害医療薬学研究室 教授 江川 孝先生
災害時にはさまざまな医療ニーズが増加する一方、情報伝達の混乱などにより被災地の状況把握が困難となることもあります。そこで、災害時の医療状況を把握するためにフィリピンで Surveillance in Post Extreme Emergencies and Disasters(SPEED)という報告システムが開発され、我が国では日本版SPEED(J-SPEED)が用いられるようになりました。さらに現在は、薬剤情報に特化した薬剤版J-SPEED(SPADE)の開発が進められています。福岡大学薬学部教授の江川 孝先生に、その開発の経緯と有用性および今後の展望についてお話しいただきました。
J-SPEEDの“薬剤版”-その開発の経緯
現在、薬剤版J-SPEEDの開発が進められていますが、その背景を教えてください。
江川薬剤版J-SPEED(別名SPADE[Surveillance of Pharmaceutical Affairs in Disaster Evaluations])の基礎である日本版SPEED(J-SPEED)は、フィリピン保健省とWHOが共同開発したSPEEDという報告手法をモデルに、我が国で開発(広島大学大学院医系科学研究科公衆衛生学 久保 達彦 教授)されました。災害時には、J-SPEEDに“どこでどのような患者を何人診療したか”を簡単に入力し、それを集計することで、被災地の医療ニーズの分布と推移を把握できるようになりました(図1)。このJ-SPEEDは熊本地震(2016年 発災)において初めて本格的に用いられ有用性が実証されたのですが、同様の形で薬剤のデータを集計することにより、リアルタイムでの薬剤ニーズが把握でき、その後の薬剤ニーズや動向を予測して災害医療のサポートに役立てることができるのではないかと考えました。そこで、J-SPEEDを薬剤データに特化した形に落とし込んだ薬剤版J-SPEEDの開発を計画しました。
薬剤版J-SPEEDの有用性や活用法について、どうお考えでしょうか。
江川J-SPEEDと共通の利点は、情報を日報で更新し集計するシステムであるため、災害医療の現状、医療ニーズがどのように変化しているかの連続的な把握ができることです。具体的には、薬剤版J-SPEEDに入力されたデータを集計・解析することで、情報が速やかに共有されるとともに、データに基づいて薬剤の需要を予想し送達するプッシュ型支援、必要に応じて供給するプル型支援、適正使用についての監視、備蓄医薬品リストの適性化、災害医療活動時の在庫管理などに役立てることができます(図2)。また、薬剤版J-SPEEDのデータから調剤の状況・動向を把握することで、保険医療機関以外で行われる災害救助法に基づく調剤から通常の調剤への移行時期を予測して、患者さんの各医療機関への受診を誘導したり、災害医療が急性期から亜急性期に移行する時期を把握して、各フェーズのニーズに見合った種類・分量の薬剤を被災地に送達したりといったことも円滑にできるようになると考えられます。
薬剤の適正使用の監視については、例えば、足場の悪い避難所では転倒リスクの上昇が懸念されるため、催眠・鎮静薬や抗不安薬の処方が増えてきていることがデータで示されたら、転倒転落のリスクがある薬剤が処方されていないかなどを医師に確認しフィードバックするなど、安全性の向上に寄与することも可能になるものと思います。また、被災者は自宅の片づけや修復作業等で筋肉痛になる方が多いのですが、貼付剤の処方が増えてきている傾向がデータで示されたら、夏場であれば光線過敏症のリスクが少ない薬剤が処方されているかを確認することなどにも活用できると考えています。
薬剤版J-SPEEDの解析から得られた知見
薬剤版J-SPEEDのデータを後ろ向きに解析する意義はどういったものでしょうか。
江川薬剤版J-SPEEDのデータは、リアルタイムで役立てるだけではなく、後ろ向きに解析することで、当時の災害医療を振り返り、将来起こりうる災害に対する備えの改善や望ましい備蓄へと繋げることができるものと考えています。薬効分類や品目は、日本災害医学会や日本薬剤師会の災害対策マニュアルのリストから作成していますので、こうした情報に基づいて、発災直後に必要となる薬剤は多めの備蓄を想定したり、急性期に派遣されるチームと亜急性期に派遣されるチームとでは持参する薬剤が異なることを踏まえた定数の決定にも役立てられるかと思います。
実際に私たちは、過去の災害処方箋のデータを薬剤版J-SPEEDに当てはめた後ろ向き解析を行っていますが、それにより災害の種類や災害医療の各フェーズによって、どのように薬剤ニーズが異なり、必要な薬剤がどのように変遷していくかを明らかにすることができました。こうした情報は、薬局における薬剤の備蓄や被災地に送る薬剤の種類やタイミング、分量の把握などに今後も反映していけるものと考えています。
薬剤版J-SPEED-将来の姿
薬剤版J-SPEEDの開発は、現在、どのような段階にあるのでしょうか。
江川薬剤版J-SPEEDの開発開始当初は、まずExcelで作成し、さらにそれをもとにスプレッドシート版を作成しました。スプレッドシートはExcelと同様の操作感で扱える上、複数人で共有し同時に編集することができます。現在は、スプレッドシート版を用いて使用法や有用性を検証している段階ですが、災害医療関連の研修会などでは薬剤版J-SPEEDを紹介して認知を広める活動も行っています。また、各都道府県において現在、災害医療に従事する薬剤師を総合的に調整する役割を担う災害薬事コーディネーターの育成が進められていますが、その研修会では、Excel版の薬剤版J-SPEEDを用いて、その使用法や有用性を検証しています。
薬剤版J-SPEEDは実用化に向けて、スプレッドシート版の検証を今年度(2023年)中を目途に完了させる予定です。来年から災害薬事コーディネーターの研修会などで用いて、多くの薬剤師に実際の活用法を習得してもらいたいと考えています。将来的には、J-SPEEDのみならず、災害時の看護や精神保健に関連した報告システムとも連携させたいと考えており、今後、その連携について多職種でも検討していきながら、最終的にはJ-SPEEDと同様に操作性の高いアプリ版を作成できればと考えています。
災害医療に携わる薬剤師が、薬剤版J-SPEEDをより理解し、活用していくことが期待されますね。
江川厚生労働科学研究補助金事業として「薬剤師のための災害対策マニュアル」の改訂を進めていますが、薬剤版J-SPEEDのデータ解析についての記載もそこに盛り込みたいと考えています。特に災害薬事コーディネーターにとって、薬剤版J-SPEEDのデータ解析を行うことに大きな意義があると考えられ、災害時にデータを日々俯瞰して、薬剤に関連した困りごとや不適切な薬剤使用が発生していないかを評価できるようになっていただきたいと考えています。
薬剤版J-SPEEDの実際の入力は調剤をした薬剤師が担い、日報を作成します。そしてその日報が調剤の記録となり重要なデータとなりますので、この活用にあたって、薬剤師の果たす役割は非常に大きいと考えています。これまでにも、被災地で薬剤師が処方データを評価して医師にフィードバックし適正使用を促す、処方支援を行う、ということが行われてきました。将来的には、薬剤版J-SPEEDを用いてそうしたデータ解析や評価が可能になりますので、災害医療に携わる薬剤師の方々には、ぜひとも薬剤版J-SPEEDに興味を持ち、薬学的知識を生かしたデータ解析・評価、フィードバックに努めていただければ幸いです。