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薬剤師×災害医療の最前線 過去から学び、未来に備えるために PART1

座談会

更新日:2019.10.16

PART1
過去の災害医療経験からの学び
-東日本大震災
佐藤 貴紀 先生
西澤 健司 先生
1999年東邦大学大学院修了(薬学博士)。日本医科大学付属病院薬剤部等を経て東邦大学医療センター大森病院薬剤部長。日本災害医療薬剤師学会会長。
PART1
過去の災害医療経験からの学び
-東日本大震災

西澤本日は、薬剤師として災害医療の最前線で活躍しておられる先生方に、東日本大震災等における災害医療経験とそこから得た教訓、現在取り組んでおられることや問題点、さらに未来に向けて改善していくべき点などについて、忌憚のないお話を伺いたいと思います。
 まず、過去の災害医療経験からの学びということで、2011年3月11日に起きた東日本大震災の被災地内において、発災から外部の医療チームによる支援が入る頃までに経験されたこと、困られたことなどについてお聞かせいただけますでしょうか。

被災地の災害拠点病院にて:宮城県塩釜市

佐藤 貴紀 先生
佐藤 貴紀 先生
2010年東北薬科大学大学院薬学研究科修士課程修了。2010年4月より公益財団法人宮城厚生協会坂総合病院薬剤部勤務。

佐藤発災時、私は当直明けで家におりました。その日は同僚とメールで安否確認を行い、翌日出勤しました。私の勤務する坂総合病院は、宮城県塩釜市にある災害拠点病院です。当時私はまだ1年目の薬剤師で、災害医療に関してはあまり理解できていませんでしたが、被災地沿岸部にある医療機関として、災害対策本部長である院長の指揮の下、多くの患者さんの対応を行いました。
 薬剤部の動きとしては、BCP(事業継続計画)の観点から最優先業務を調剤と判断し、3月27日までは病棟業務を休止して、中央薬局業務とトリアージ黄色エリアでの薬剤管理に集中しました。勤務体制としては、職員が疲弊しないよう、主任薬剤師が他の12 名を3チーム(日勤チーム、夜勤チーム、休みチーム)に分け、シフトを組みました。
 薬剤部の職員は全員無事でしたが、津波で家が流されて家族との連絡も取れず、不安を抱えながら仕事をしている方もおられました。ライフラインについては、当院には非常用電源があったので、冷蔵庫や散剤の分包機は非常用電源のコンセントにつないで、最低限は使えるようになっていました。また、調剤機器の故障はありませんでした。

医薬品の調達は卸・調剤薬局、民医連との連携で

トリアージタグ・トリアージの区分とカテゴリー

西澤医薬品が足りなくなることはありませんでしたか?

佐藤医薬品の調達については、門前薬局が平時から「顔の見える関係」だったため、すぐに連携をとり薬剤を借りました。また、卸業者とは電話連絡が可能であったため、災害拠点病院ということで優先的に薬を配送してもらいました。夜遅くまで精力的に対応いただき、改めて卸の底力と連携の重要性を感じました。卸・調剤薬局との連携により、備蓄薬はなかったものの薬が途切れることはありませんでした。薬剤の確保も大変でしたが、それ以上に、薬袋や処方箋など薬以外の調剤に必要な物品がなく苦労しました。
 外部からの支援として、DMAT(災害派遣医療チーム)が発災後3、4日目に入って下さいました。亜急性期(1週間)以降は、当院の所属する宮城民医連の上位組織にあたる全日本民医連よりプル型支援を得ました。薬剤の購入リストを送り、被災地外の地域から薬剤が送付されてきたことに、民医連のネットワークの大きさを実感しました。また、新潟から薬剤師を含む医療支援チームがDMATより早い3月12日に来て下さいました。しかしながら、院内に支援マニュアルがなく、対応に苦慮したことから支援マニュアルがあれば、もっとスムーズに支援薬剤師と連携できたのではないかと思います。

西澤発災当初は、薬を求める外来患者さんが殺到したのではないでしょうか。

佐藤後日、写真で石巻赤十字病院(石巻日赤)などの処方外来に多くの患者さんが並んでいるのを見ましたが、当時、私は院内の調剤室やトリアージ黄色エリアで働いていたので、正直、そのような実感はありませんでした。

被災地の調剤薬局、救護所にて:宮城県東松島市、石巻市

土佐 貴弘 先生
土佐 貴弘 先生
1998年東北薬科大学薬学部卒業。公立深谷病院等を経て2006年より株式会社こぐま薬局代表。宮城県薬剤師会常任理事、石巻薬剤師会副会長。

西澤佐藤先生と同様、被災地内におられた土佐先生はいかがでしょうか?

土佐宮城県東松島市にある当薬局(こぐま薬局)の場所は、市役所のすぐ近くです。ここは幸い津波の被害はなく、地震が治まってから患者さんを帰しました。津波警報が鳴ったという話ですが、全然聞こえませんでした。
 ライフラインはすべて切れていたので、隣接する内科クリニックの医師と相談し、ライフラインが回復してから薬局も再開することにしました。今後どうなるかわからない手探り状態の中、とりあえず薬局のスタッフは全員帰らせ、これから訪れるかもしれない患者さんに備えて一人薬局内の片付けをしました。その後、車で実家に帰ろうとしたのですが、実家近辺は水浸しで帰れなかったため、薬局に戻って一夜を明かしました。
 発災翌日から、地元の患者さんが大勢来局しました。薬の供給が今後どうなるかわからないため、保険証などで名前や住所を確認して、3日分くらいを渡していました。夜は薬局で寝泊りをし、来店した旧友と情報交換をしました。
 発災後2、3日目くらいに行政の方が来て、市の保健センターでの救護活動を手伝ってくれないかということで、薬局の医薬品を持って手伝いに行きました。その救護活動は医師が2~3人、薬剤師が2人くらいで対応しており、診療は9時から12時まででしたが、薬の配布が終わるのは15~16時頃でした。救護所では、薬は3~5日分で出していました。
 電話もつながらない状況下で、発災後5日目くらいに卸が薬局に顔を出してくれて、発注をかけることができました。夕方、時間ができた日に石巻日赤へ行ってみると、知り合いの医療関係者が何人かいて、そこでの救護活動も手伝うことになりました。こうして、昼間は市の保健センターで救護活動、夕方からは石巻日赤の救護のお手伝い、夜は薬局で旧友と情報交換という生活を2~3週間続けました。
 その後、隣の内科クリニックのライフラインがほぼ復旧したので、薬局も再開することにしました。ただ、すぐに従来どおりというわけではなく、当面は午前中のみ開局し、午後は医療支援チームの詰所でのお手伝いをして何ヵ月間かを過ごしました。

ライフラインや情報が寸断した中でも工夫と記録、そして倫理観を

災害用処方せん(見本)・災害用救急薬(見本)

西澤保健センターの救護所にマニュアルなどはあったのですか?

土佐救護活動は行政主体でやっていたので、防災マニュアルなどは用いられていたと思いますが、私の置かれた状況では把握できませんでした。ただ、救護所には日頃から行政とお付き合いのある医師、薬剤師、保健師等が参集しており、多くが顔見知りでした。

西澤ライフラインが動いていない状況で、調剤の工夫は何かされましたか?

土佐水剤は原液があれば何とかなります。散剤に関しては、電子天秤が使えないので分銅型天秤を使う、あるいは1円玉が1gなのでそれを利用する、分包機の代わりに薬包紙を使用するなど臨機応変に対応しました。

西澤災害処方箋はどうしていましたか? また、災害救助法による、被災者から診療報酬は受け取らないというルールはうまく機能していましたか?

土佐災害処方箋や災害時薬袋などは、各々の仮設診療所や薬局などが自前で作っていたのではないかと思います。情報が入ってこず、災害救助法が適用されたこともすぐにはわかりませんでした。被災した患者さんから薬剤費等を受け取らないということは、薬剤師としての常識あるいは倫理観として最低限やらなければいけないことだと思います。併せて、どこの誰に何をどれくらい渡したかという、調剤に関する記録を全部とっておくことが重要です。

増田災害救助法の適用に関する情報は、宮城県薬剤師会(宮城県薬)から聞かれたのですか?

土佐発災1週間後くらいに東松島市役所を通じて聞きました。市の保健センターで救護活動していたので、早期に情報が得られたほうだと思います。宮城県薬の一般会員にまで情報が伝わっていたかどうかはわかりません。私は6~7月にレセプトを県に提出し、ある程度の費用弁償がありました。しかし、災害救助法適用の通達があったこともわからず、請求に関する問い合わせを県にした人も多かったようです。災害医療では、基本的に収支面でプラスになることはありませんが、やはり職能としての倫理観のほうが重要だと思います。

被災地の後方支援病院にて:宮城県大崎市

尾形 知美 先生
尾形 知美 先生
2009年東北薬科大学卒業。大崎市民病院に勤務。退職後、2018年7月豪雨にて、災害特定非営利活動法人ピースウィンズ・ジャパンの業務委託員として復興支援活動を行う。現在は派遣薬剤師として勤務しながら、災害医療の啓蒙・教育活動を続けている。

西澤それでは次に、尾形先生はいかがでしょうか?

尾形発災当時、私は宮城県の大崎市民病院薬剤部に所属する、3年目の薬剤師でした。被災地内ではありますが、沿岸部の病院を後方支援するという立場です。しかし、沿岸部の病院がどうなっているかという情報は全く入ってきませんでした。それでも後方支援病院の薬剤師として、トリアージ緑エリアで軽症の患者さんが来られた際の調剤などを行いました。DMATというものの存在も、職場にそのチームがあることも、そのとき初めて知りました。

西澤ライフラインの状況はどうだったのでしょうか?

尾形ライフラインは切れており、電気も使えなかったので散剤の調剤はできず、水剤に変更するなどして対応しました。

佐藤大崎市民病院は災害拠点病院ですので、非常用電源があったのではないでしょうか?

尾形自家発電機は回っていましたが、自分がいたトリアージ緑エリアでは散剤の調剤はしなかったように記憶しています。

西澤病院によっては、人工呼吸器などへ電気を回すのに手一杯ということもあろうかと思います。

尾形 知美 先生

医療支援に赴く:茨城県坂東市より

増田 道雄 先生
増田 道雄 先生
1974年明治薬科大学卒業。製薬会社勤務を経てマスダ調剤薬局代表。茨城県薬剤師会副会長、日本災害薬剤師学会副会長。

西澤それでは今度は増田先生から、医療支援を行った側としての体験、感想をお聞かせいただけますでしょうか?

増田発災時は非常に大きな揺れを感じました。その日は、茨城県坂東市の老人保健施設で仕事をしていましたが、余震が続く中、入所者の避難誘導と安全確保を行った後、状況把握のために坂東市内の薬局(マスダ調剤薬局)に戻りました。その後、坂東市役所の災害対策本部に行ったのですが、特に被害はないとのことで、その夜は停電による暗闇の中、坂東市内の介護関連施設を数箇所回ってニーズの聞き取りを行いました。
 翌日、被災地の通行許可証が交付されました。当初はすぐに荷物をまとめて、東北の被災地へ医療支援に向かう予定をしていたのですが、茨城県自体も被災県であり、茨城県薬剤師会(茨城県薬)の会員薬局の状況を把握することが最優先課題でした。県北部の高萩市、北茨城市などとは全く連絡が取れない状況になっていましたので、茨城県薬の事務局スタッフと現地に向かいました。現地は電気も電話も不通状態でしたが、会員薬局に大きな被害はありませんでした。
 発災6日目の3月16日、福島県相馬市を訪れました。坂東市薬剤師会で準備した使い捨てカイロや紙おむつ、マスク、水、消毒薬などを届けました。その後いったん茨城に戻って、再度態勢を整えてから宮城県の石巻方面へ向かいましたが、その途上、福島県薬剤師会から三春町立三春病院(福島県)の門前薬局がパンク状態なので支援に向かってほしいとの要請を受けたため、19日に三春町に入りました。薬局では調剤のお手伝いをしましたが、患者さんが怒涛のごとく押し寄せ、現場は半ばパニック状態でした。翌20日になると、今度は福島県いわき市から支援要請が出たため、茨城県薬の支援グループ9名のうち数名を三春町に残して、それ以外は同日中にいわき市に移動しました。

医療体制崩壊下での支援活動:福島県いわき市

災害用処方せん(見本)・災害用救急薬(見本)

西澤いわき市での支援活動はどのようなものでしたか?

増田いわき市は原発に近いこともあって地元の医療機関の多くが撤収してしまい、医療体制が崩壊している状態でした。現地に残って診療を継続している医療機関に患者さんが集中し、その近辺の薬局には朝から夜中まで患者さんが訪れ、地元薬剤師は皆疲弊していました。
 医療支援は、薬剤師では私たちが第一陣でしたが、既にJMAT(日本医師会災害医療チーム)をはじめとするいくつかの医療チームが活動を開始していました。滞在期間中(3月20日~23日)、私たちはいわき市医師会館に開設された仮設診療所や各避難所で、医療チームの一員として調剤や医薬品管理をはじめとする様々な活動を行いました。
 医療用医薬品は、私達の入る前日に厚労省か日本医師会からか不明ですが、既に90品目ほどの医薬品が入っていました。また、地元卸からの医薬品の供給体制も概ね可能な状況でした。勿論、この90品目の医薬品では、仮設診療所から出る処方にはほとんど対応できませんでした。その際、医師会長から「同効薬をあなた方の判断で出してください」と言われ、患者さんの持参薬を鑑定し、お薬手帳を見て同効薬へ処方変更するなどの対応を行いました。主に慢性疾患の患者さんの薬切れという状況に対する調剤でした。薬剤師は本来、処方箋どおりに薬を出すことが仕事ですので、自らの判断でと言われるととても責任を感じましたが、同時に非常に良い勉強、経験になりました。
 臨機応変で動くしかない中で、様々なアイデアを出し、無駄のない動きをして、有効な支援ができたのではないかと思います。薬剤師の専門性を活かした活動は、医療チームから非常に高く評価していただきました。今後、日本薬剤師会で基本的な支援プランニングを作成しておき、発災と同時に動き出すようにすれば非常に効果的なものになるだろうと思います。
 これまでの経験から、災害は決してマニュアル通りに対処できるものではないと考えています。災害の種類や規模、季節などによっても状況は全く異なるため、準備をしていってもなかなかそれがいかせないのが災害というものでしょう。要は、臨機応変に対応できる人材と需要にあった物資の供給ができるかにかかっているということです。

西澤先生方、大変貴重なご経験をお話しいただきありがとうございました。(Part 2につづく)


用語解説

トリアージ●色エリア
トリアージとは、発災現場等において傷病者の傷病の重症度と緊急性を短時間で評価・把握するカテゴリー分けで、日本では赤・黄・緑・黒の4つに分ける。赤は最優先治療群、黄は待機的治療群、緑は治療不要もしくは軽傷群、黒は治療対象外(救命困難群あるいは死亡)を示す。
プッシュ型支援、プル型支援
発災時に被災地の要請を待たずに支援物資等を供給する支援方法をプッシュ型支援という。これに対し、被災地側の要請を受けてから必要物資等を供給する支援方法をプル型支援という。
BCP
業務継続計画(Business Continuity Plan)。発災時に、想定した被災状況であっても医療継続できるよう優先業務を選定し、限られた人的資源および物的資源であってもその業務を実行できる準備を目的としてあらかじめ作成するプラン。
DMAT
災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team)。発災直後(概ね48時間以内)に活動を開始できる機動性を持った専門的な研修・訓練を受けた医療チーム。医師、看護師、業務調整員(ロジスティックス)からなる。薬剤師、放射線技師、臨床検査師などは業務調整員として参加する。日本DMAT隊員になるには、DMAT指定医療機関に勤務し、DMAT隊員養成研修を受講して試験に合格するなどの条件がある。
JMAT
日本医師会災害医療チーム(Japan Medical Association Team)。被災地の都道府県医師会の要請に基づく日本医師会からの依頼により、全国の都道府県医師会が編成する医療チーム。災害急性期以降の避難所・救護所等での医療活動を主として行う。医師、看護職員、事務職員(ロジスティックス)に加え、歯科医師、薬剤師などからなる。

(用語解説参考文献)

名倉弘哲、山内英雄(編)、はじめるとりくむ災害薬学.南山堂、東京、2019年

次回予告
Part 2では、これまでの災害支援経験等をもとに現在、どんなことに取り組んでおられるのかといったテーマで先生方にお話しいただきます。

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