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災害時とがん患者 〜薬剤師の視点から〜 甚大な被害をきっかけに、電子カルテも含めた情報ネットワークの構築が始まる ー東日本大震災ががん患者に与えた影響

インタビュー

更新日:2020.10.26

地震や水害などの災害時には、建物の損壊や電源喪失、薬剤不足、罹災した救急患者の受け入れなどで医療機関が機能不全に陥ってしまい、普段通院していた病院で治療や検査を受けられない状況になることもあります。これは、ただでさえ医療依存度の高いがん患者さんにとっては、命にかかわる問題になりかねない深刻な状況と言えるでしょう。第1回目の今回は、東日本大震災時において医療機関はどのような状況にあり、どのような対応ができ、もしくはできなかったのか、またその時に、がん治療はどのような状況にあったのかについて、東北大学病院薬剤部部長 眞野成康先生に、東日本大震災でのご経験を交えてお話しいただきました。

東日本大震災発災後しばらくは、外来を縮小して入院に注力

まずは、がん患者さんに限定せず、東日本大震災のときの東北大学病院の状況や対応についてお聞かせいただけますでしょうか。

震災直後の女川町立病院の薬局の状況
震災直後の女川町立病院の薬局の状況

眞野東日本大震災の発災は2011年3月11日(金)の14時46分頃でした。通常、金曜日のその時間帯は、土・日・月曜日分の注射剤を病棟に払い出す頃です。15時になると薬剤部内の在庫量が計算され、新たな薬剤が卸に自動発注されます。従って、薬剤部内の薬剤、特に注射剤の在庫が最も少なくなっている時間帯に被災したということになります。それゆえ、発災後は薬剤の確保、特に冷所品の確保には本当に苦労しました。発災により停電が起こり、非常用電源はすぐに稼働しましたが、病院全体で見ると非常用電源につながっていない薬品用冷蔵庫もたくさんありました。本当はそうした冷所薬剤をすぐに回収する必要があるのですが、損壊の激しい外来棟が立入禁止になるなど、回収が難しい状態でした。電源は丸1日半ほどで復旧しましたが、それまでは電子カルテも使えない状況でした。電子カルテ自体は非常用電源につながっていましたが、電子カルテのサーバ室のエアコンへの電源供給ができないため、電子カルテの電源を全部落とさざるを得ませんでした。

 発災当初、当院の周囲の状況はほとんど分かりませんでした。テレビは見られませんでしたし、夜になって初めてラジオの報道で津波がひどかったことを知ったほどです。しかし、すさまじい規模の地震でしたので、当然負傷した患者さんも多く受診されるだろうと思いました。そこで、通常の夜勤は薬剤師2名体制をとっていますが、金曜日と土曜日の夜は8~9人ぐらいが徹夜で勤務しました。しかし結果的に津波で多くの方が亡くなり、むしろ負傷した患者さんはあまり搬送されてきませんでした。
 宮城県および東北地方の沿岸部を含めた被害状況が徐々に分かってきたのは、日曜日から月曜日にかけてです。当院の医師の多くが沿岸部の病院で外勤していましたので、そうした人達が、個々の医療施設が置かれた状況についての情報を集めてくれました。
 発災後の当院の態勢としては、外来をかなり縮小して入院診療に注力するという状態がしばらく続きました。特に沿岸部の石巻地域の後方支援として、患者さんが押し寄せていた石巻赤十字病院(以下、石巻日赤)の入院患者さんを当院に移送してもらい、先方のベッドを空けることに取り組んでいました。当初は4月初め頃には通常の診療体制に戻し、外来も含めて稼働させようと考えていましたが、4月7日に大きな余震が起こったため、再度診療の縮小を余儀なくされ、最終的に当院の診療機能がすべて通常状態に戻ったのは4月末頃だったと思います。

震災後の医療機関の状況
震災後の医療機関の状況

薬剤確保のため様々な入手ルートを模索

発災後の薬剤の確保について、詳しくお話しいただけますでしょうか。

眞野通常、卸は担当する営業所が病院からの発注を受けると、当日中に納品するべく動くわけですが、発災当日は当院から自動発注されませんでしたし、そもそも卸のほうも停電で受注できない状態でした。しかし、それでも一部の卸は徒歩や自転車で当院に駆け付けてくれ、必要な薬剤の情報をメモして翌日に届けてくれました。ただ、当院内での情報も錯綜していて発注が容易でないことに加えて、仙台市内の道路渋滞が激しくて車が使えないため、持ってくる量には限度があります。さらに、卸の倉庫も被災して棚が崩れ、何がどこにあるか分からないようになっている中で、崩れた山の中から必要な医薬品を探し出して持ってきてくれるという状況でした。最初の数日はそんな状態でしたね。
 東北道の寸断などもあり、通常のルートでは薬剤が全く手に入らない状態でしたので、当院の医師らは連携施設などの様々な伝手も使って、別ルートでも集められる薬剤はできるだけ集めるよう努力していました。例えば、医療機器メーカーの荷物を運んでくるトラックがたまたま宮城県方面に来るという話があれば、所定の場所での薬剤のピックアップと当院への配送をお願いするなどしていました。物流が通常に戻り、発注した薬剤が入手できるようになるまでに2週間以上かかったと記憶しています。
 当院では、入手した薬剤を被災地に届ける活動も積極的に行っていました。先述のように、当院の医師が県内のいくつもの病院で外勤していましたので、帰ってきた医師から情報が集まりますが、今度はその医師が勤務している被災地の病院に向かうときに、不足している薬剤を持って行ってもらうようにしました。医師本人から足りない薬剤を請求されることもありましたし、薬剤部が沿岸部の医療機関に確認し、医師を通して渡すこともありました。

震災直後の公立志津川病院震災直後の公立志津川病院

女川町立病院からみた市街地女川町立病院からみた市街地

外来化学療法の本格的再開は約2週間後

東北大学病院には、発災時に外来化学療法で来院していたがん患者さんや、がんで入院していた患者さんも多くおられたと思いますが、そうした患者さんへの影響や病院の対応はどのようなものでしたか?

眞野当院で外来化学療法を受けている患者さんは当時1日60~70人くらいで、金曜日は若干少なめです。発災時、外来の処置室には何名かの患者さんが残っておられて、おそらくその日最後の注射剤投与を行っていたものと記憶しています。発災後、注射剤投与中の患者さんに関しては、すべて投与を中止したと思います。がん患者さんも含め、帰宅できなくなった外来患者さんや付き添いのご家族などが院内に留まっており、外来の待合室などで休まれていましたので、そうした方々のために処置室も開放しました。あの日は非常に寒くて、夕方からは雪も降ってきました。
 急を要する患者さんに対しては、外来化学療法を発災1週間後くらいから少しずつ始めていましたが、再び正常に稼働し始めたのは2週間後くらいだったと記憶しています。なぜ2週間もかかったかと言いますと、発災後1週間ほどは当院の多くの医師、看護師、薬剤師が被災地の支援に行っており、その間は当院の本来の診療ができなかったためです。最初の1週間ほどは多くの避難所を回って、慢性疾患で薬がなくなった患者さんなどに医師が聴き取りをして処方箋を出し、同行した薬剤師が調剤してお薬を渡すといった感じで、医療救護所のコーディネート体制ができる前の対応をしていたわけです。1週間くらいすると全国からたくさんの医療従事者が被害の激しかった沿岸部の支援に来てくださいましたので、当院の医療関係者は病院に戻って体制の再構築を始めました。

連携は図るも、がん治療は一時的に置き去りにされた可能性も

被災地の病院に通院していたがん患者さんの受け入れも行っておられたのですか?

眞野例えば、被災地にある石巻日赤でがん治療を普段受けておられた患者さんを、当院で受け入れたことはありました。当院は仙台市内にあってしかも山側ですので、地震の影響はありましたが津波の影響は全くありませんでした。ですから、被災地にある石巻日赤や気仙沼市立病院などのがん治療を実施している病院から患者さんを当院に紹介してもらって治療するということは少なからずあったと思います。そのためか、外来化学療法の再開後は一時期、治療の実施件数が増えていました。

治療継続のために受け入れたがん患者さんの使用薬剤などに関して、前に通院していた病院との連携はうまくとれていたのでしょうか?

眞野うまく連携できたケースと、うまくいかなかったケースの両方があると思います。石巻日赤に関しては電子カルテの情報が残っていたので、連携は問題なく行えました。しかし、被災地では電子カルテの情報が失われた病院もあり、そうしたケースでは診療履歴が全く分からない状態ですので、検査など一から全部やり直すことになったのではないでしょうか。医療の面からすると、電子カルテの情報の損害というのは大きかったと思いますね。東日本大震災をきっかけに、宮城県は二度と情報を失うことのないよう震災復興予算を用いて、「みやぎ医療福祉情報ネットワーク(MMWIN)」という電子カルテも含めた情報ネットワークの構築事業を展開しています。

みやぎ医療福祉情報ネットワーク(MMWIN)
みやぎ医療福祉情報ネットワーク(MMWIN)

 電子カルテとは別に情報の保存という意味では、簡易ではありますがお薬手帳などは最も良い連携ツールだと思います。お薬手帳を津波で流されて持っていない患者さんもたくさんおられましたが、それを持っているか持っていないかで、やはりその後の対応は大きく違ったと思います。例えば当時、お薬手帳を持っていた患者さんは、医師の処方箋がなくても特例で慢性疾患の薬剤を薬局で受け取れたりもしました。

やはり、がん患者さんの治療継続のためには、医療機関の連携が不可欠と言えそうですね。

眞野現在は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が続いていますが、例えばCOVID-19患者さんを受け入れている病院で院内感染が発生し、治療が継続できなくなった場合に、がん患者さんを他の病院で治療継続できるようにするための連携協議は、医師を中心として病院間で行われているはずです。そういう意味では、どこか1つの医療機関が機能不全に陥っても、他の医療機関がそれをカバーするというような仕組みを作るのは難しくないと思います。
 ただ正直、東日本大震災はあまりにも被害が甚大で、がん治療が一時的に置き去りにされていた可能性はあるだろうと思います。そもそも連携も何も、多くの病院が損壊しているという状況でしたので、当院としても被災地の病院の最低機能をどうやって維持するかというところで、人を送ったり物を送ったり、また患者さんを受け入れたりといった支援を行うことが優先されておりました。ですので、がん患者さんに限って何か特別な対応をするというようなことはなく、むしろ救急患者さんなどと比べて後回しにされていた部分もあったかもしれません。

次回予告
Part 2では「将来の災害を見据えて平時から情報連携の仕組みづくりを始めることが重要」について、先生にお話しを伺います。

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